インタビュー

株式会社吉田商業
代表取締役 吉田 征史

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現在滋賀県草津市芦浦町に本社を置き、自動車整備業、鈑金塗装業を運営しています。また、同市草津町にて軽カーリース専門店のフラット7草津を出店し、多くの新車を販売しています。自動車は、お客様の日々の暮らしを支えるパートナーです。「ずっと近くで安心を」私たちの事業は、お客様のお車を常に安全な状態に保ち、毎日安心して使って頂くために存在します。お客様のお役に立ち、当社を選んで本当に良かったと感じていただきたいからこそ、私たちは知識を深め、技術を磨き、経験を重ね日々努力を続けています。

Q1 なぜ今の仕事に

幼少期~高校生まで

私は、1978年2月7日に父 吉田清澄、母 恵子の長男として滋賀県草津市で生まれ育ちました。両親と二人の姉に囲まれ大切に育てられました。子供の頃から手先が器用で図工が得意な子でした。絵を描く事や物をつくる事が大好きで、図工だけはできる子供でした。中学に上がった時、美術の作品をいじめっ子に破られて提出できなかった事がありました。その事を誰にも言えず、その期の美術の成績は「1」になりました。作品が破られた実を知らない両親は成績をつけた担任に怒り「小学校1年生からずっと算数も国語も理科も社会も成績悪いけど、図工だけは「5」やったのに、なんで「1」なん!この子はこれしか取り柄がないのに!」と担任に抗議をしていました。両親からこれしか取り柄が無いと言われた事のほうがショックでしたが。

父親は車が好きな人でした。製造業を営んでいた父親は、バブル絶頂の頃にベンツやハーレーを買い揃え私によく自慢していましたが、中学生の私は高級な車やバイクに1ミリの興味も示しませんでした。父親がある日、送迎車として買った8人乗りのワゴン車を私に見せてくれました。広い室内や実用性にあふれたその車に衝撃をうけた私は、この車凄い!中で寝られる!何人も乗れる!天井開く!と感動の連続でとてもワクワクし心が躍った事を覚えています。その頃から私は車に興味を持ちはじめ、当時流行っていた三菱パジェロやトヨタサーフといった4WD車に憧れ、お小遣いでプラモデルを買っては造って眺めていました。高校生に入ると、まわりに影響を受けバイクに夢中になりました。当時、父親は16歳の私に校則違反を承知で二輪免許取得とバイク購入を許可してくれました。今思えば、我が子が盗んだバイクで走りだす事を恐れていたのかもしれません。

高校時代は、お笑いにも夢中になりTVで流れる漫才やコントを録画し、VHSが擦切れるほど繰り返し見ていました。友達とお笑いコンビを組み、文化祭で漫才なのかコントなのか良くわからないモノを披露したり、お笑いライブを開催したりで、その頃の私の夢はお笑い芸人になる事でした。

親の心子知らず

バブルが終わり、私が進路を考える頃には、父の会社の経営も悪化し、数台あったハーレーが一台ずつ無くなり、ベンツがクラウンにかわり、商売がうまくいってない事を感じていました。お笑い芸人になりたかった私は、コンビを組んでいた相方に、NSCに入って一緒に漫才やろう!と誘いましたが、あっさり断られ、しかたがないから家業の役にでもたちそうな分野の学校にでも行こうかなと勝手に考えていました。そんなある日、父から「お父さんの会社も今後どうなるか分からん。お前は車が好きで手先が器用やから自動車整備士の資格を取ったらいい。国家資格があったらお前でも食いっぱぐれる事は無いやろ」と言われました。へーそーなんやくらいの気持ちで整備士資格が取れる京都の専門学校に通わせてもらう事になりました。

ところが、在学中は全く勉強をせず、パチンコ店でバイトをしながら親から買い与えられたパジェロで毎日京都の街へ繰り出し、毎日毎夜遊び惚けていました。某外国車ディーラーに内定が決まっていたものの、路上駐車やスピード違反などを繰返したあげく人身事故を起こした私は21歳で運転免許取消しとなり内定も白紙となりました。そんな一大事にも関わらず、車が無い「そうだ、京都へ行こう!」と滋賀から京都へ移り住み、勉強もせずに京都のパチンコ店でバイトをしながら相変わらず遊び惚けていましたが、そんな私にも3ヶ月後に控える国家試験の足音が迫ってきました。切羽詰まった私は、そこから昼夜問わず勉強にはげみ3カ月で知識を頭にぶち込み、なんとか2級自動車整備士試験に合格する事ができました。

これまでを悔い改めたニート時代

なんとか卒業はできたものの、就職ができなかった私は、滋賀の実家に戻り、地獄の自転車ニート生活の末、人生2枚目の運転免許を取得しました。そして、ピカピカのグリーン免許を握りしめ〇〇給食という会社で弁当配達のバイトをはじめました。ところが、そのバイトがかなりハードで、「5号車!まだなの!5号車!」と無線で怒号を浴びせられ、スピード違反前提で組まれている配達ルートをアクセル全開で駆け抜けていました。当時の私に名前は無く、ただの5号車として毎日必死で弁当を配達していました。当時の給食先に1件だけ車屋さんがありました。ある日、その車屋さんに努めていた私と同い年くらいの金髪の兄ちゃんが、真剣な眼差しで車をピカピカに磨いていました。彼の姿を見た瞬間、ようやく自分の愚かさに気が付きました。親に苦労をかけてまで取らせて頂いた資格を無駄にして、毎日5号車と呼ばれ弁当を運び続けている自分が本当に情けなく思い、とにかく車関係の仕事がしたい、とにかく車の仕事に就くぞ!と心に決めました。その日から車屋さんで働くという目標ができた私は、「給食」から「求職」へシフトをチェンジし、21歳の春から車検専門店の整備士として働く事となりました。

社会人になる

私が勤めたお店は、整備士自らが商品やサービスをお客様へ提案し売込む、というスタイルをとっていました。それまで私は、人に物を売るといった経験が無かったので、商品知識とマニュアルを必死で頭に叩き込みました。商品の情報を伝えるだけではダメで、それぞれのお客様の知識量やお車の状態に合わせ商談を進めなければなりません。不思議と商品やサービスの必要性を上手く伝える事ができた私は、常に売上げトップとなり良い成績を残す事ができました。人は結果が出ると嬉しくなり、更に良い結果を求め努力を重ねます。人の成長とは、そういった成功の積重ねです。この頃は、これまでの人生で初めて人の役に立ち、良い評価を受けているという達成感を感じていましたので、仕事も楽しくセールスに必要な素養を重ねられた時期でした。同時に技術的な経験も積み、整備士より格上の「自動車検査員」という資格を取るチャンスも巡ってきました。

その頃、地元では少し名の知れたバンドを組んでいる友達のライブに、よく遊びに行っていました。仕事は順調だったものの、夢を追いながら少しずつ成長している彼らの姿に憧れを抱いていました。また、過去の自分が置いてきた芸人という夢も、少しだけ頭の片隅でくすぶっていました。ある日、バンドに新しい要素を取入れたいからメンバーにならないかと誘われました。音楽は未経験であったものの、22歳の私は彼らと一緒に夢を追いたくなりバンドへの加入を決意しました。はじめは、仕事をしながら活動をしていましたが、次第にライブの本数が増え、仕事とバンドの両立に限界を感じた私は仕事を辞める決意をしました。ただし、不安定な世界に飛込む前に、自動車検査員の資格だけは取っておこうと心に決めていました。それからというもの仕事とバンドを両立させながら睡眠時間を削りに削って猛勉強をし、半年後に自動車検査員試験に合格できた私は、23歳で仕事を辞め本格的に音楽という次の挑戦に向かう事となりました。

業種転換のきっかけ

バンド時代は私にとって青春そのものでした。デカいハイエースに機材とメンバーを積込み、知らない土地のライブハウスを巡り、いろんなバンドと酒を交わし、笑いながら悩みながら一つのステージを創り続けていくのが本当に楽しくて、お金がなくとも充実した日々でした。しかし、バンド活動は機材購入や移動費、スタジオ代など結構お金がかかります。また、出演するライブの動員ノルマが達成できなければ自腹を切らなければなりません。しかも時間の融通が利く仕事しかできません。そこで私は、前職の経験を活かし実家の駐車場の空きスペースで車検代行業を始めました。それから数ヵ月が過ぎた頃、父も新しい仕事にチャレンジしたかったようで自動車の鈑金塗装の仕事を始めると言い出しました。先ずは工場を建てるからお前も手伝えと言われ、私は父と二人で父の会社の敷地内に新たな工場を建てる事となりました。父は相当器用な人で、今も残る社屋も自らの手で建てたと言っていました。それから私達は基礎を組み、柱を立てて、屋根と壁を張り、中古の設備を買い揃え、3ヵ月程度で工場が完成しました。その後父は、4名の従業員を雇い入れ、2002年に新しい事業をスタートさせました。私はバンドが解散となる2006年頃までアルバイトとして父の会社に勤めました。

苦しんだ中古車販売

自動車事業開始から3年程経った2005年頃からは、新規顧客獲得のために中古車販売を始めました。その中古車販売業は本当に苦労の連続でした。30万円くらいで買える古い格安中古車をずらずらと並べていたのですが、どれだけ丁寧に車を整備しても古くなれば必ず不具合が発生します。安いから良く売れてはいましたが、納車後は様々なトラブルが発生しました。エンジンがかからなかったり、走行中にエンジンが止まる事もよくありました。暮らしを支える車がトラブルを起こすという事は、お客様の暮らしそのものにダメージを与えます。場合によっては故障が原因で事故が起こるかもしれません。どれだけお客様と信頼関係を築いていても、不具合や故障により客様からの信頼は一瞬で崩れます。クレーム対応で時間もお金も気持ちもすり減る毎日で、長い期間中古車を販売しましたが顧客数は全く増えずクレーム対応に振回される毎日でした。

そんなある日、まっすぐ走って雨風がしのげれば何でも良いから、とにかく安い車が欲しいとおっしゃる客様が、ノークレームを条件に5万円の軽自動車を購入されました。納車して数ヵ月が過ぎた頃、エアコンが効かなくなったと連絡を受け、修理費用に5万円程かかるとお伝えしたところ「車を買った値段と一緒やん!悪どい商売やな!」と怒り狂って電話を切られました。売り手が悪ければ買い手も悪し。私にとっても相当嫌な経験でした。我々整備士は、お客様の車を安全な状態に保ち、安心して使って頂くために存在します。車社会の安全を保つ事こそが我 々整備士の使命です。そのはずなのに私は、赤字を補填するためだけに車を売り、限られた予算の中で最低限の整備を施し、何事も無いことを祈り納車をする。ただ在庫を処分したいがために整備士としての技術を投じていたのです。反省した私はその件をキッカケに全ての在庫を処分し中古車販売をやめ、次の策を考える事にしました。

転機

それからは、数々の経営セミナーや説明会に何度も足を運び、多くの情報を集めました。そして出た答えが新車販売でした。考えたわりにはシンプルな答えでしたが、通りの少ない田舎の僻地であろうが、見た目が悪い古い社屋であろうが、何としてでも新車を売らなければならないと心に決めました。 中古車販売を停止して2年が過ぎた頃、月々1万円から新車に乗れる「フラット7」というシステムに出会いました。このインパクトがあれば田舎の僻地でも新車が売れるかもしれないと思い、すぐに説明会の門をたたき、2017年10月に「フラット7」に加盟しました。期待していた販売台数までは届かずとも、毎月新規のお客様が来店され、徐々に契約を頂けるようになりました。

販売数台も少しずつ増えてはいましたが、田舎の僻地までお客様を呼び込むには大量の広告を打たなければなりません。素晴らし商品があったとしても、それを世に認知してもらい興味を持って頂かなければ商売に結びつける事はできません。そこで、もっと車通りが多い場所に新店舗を出ししたいと考え、ひたすら物件を探す事2年、現在の物件と出会い2019年9月6日にフラット7草津を出店しました。 フラット7加盟当時は、全く知らない新規のお客様から新車を買って頂けるという事が驚きでしたし、お客様も全く知らない車屋さんで新車を買うのは抵抗があると思います。だからこそ、信頼して納得して私達を信じて購入して頂いたお客様一人ひとりを大切にしています。

Q2 現在の仕事への思い

自動車は、お客様の日々の暮らしを支えるパートナーです。しかし、自動車は自ら回復する事ができません。私たちの事業は、お客様のお車を常に安全な状態に保ち、毎日安心して使って頂くために存在します。お客様のお役に立ち、当社を選んで本当に良かったと感じていただきたいからこそ、私たちは知識を深め、技術を磨き、経験を重ね日々努力を続けています。自身のこれまでの失敗や経験が全てこの思いに繋がっているからこそ、安心して全てをお任せ頂きたいのです。

Q3 あなたにとっての覚悟とは

23歳から家業としてこの仕事を初め、これまで多くの方に出会い支えられたからこそ、今の成長があります。23年以上のお付合いのお客様も、数ヵ月のお付合いの方もおられます。まだまだ若輩者でご心配をかける事もありますが、私は当店を選んで頂いたお客様に感謝し、そのご縁と繋がりを大切に思っています。これからも安心してお任せ頂けるよう、健康に健全に歩みを続け、より多くのお客様の役にたてるよう邁進していく所存です。

Q4 今後の展望

「ずっと近くで安心を」私たちが掲げるテーマです。私はこの仕事が大好きです。好きだからこそ、毎日お客様に笑顔で安心して車に乗って頂きたいと思っています。万一の事故や故障が起こった時は、車のお医者さんとなり、お客様の心のカウンセラーとなり万全な状態でご不安を取除けるよう努めたいと思っています。しかし、私一人の力は限られています。これからも私と同じ志を持った仲間を増やし、いかなる場合でも「ずっとお客様の近くで安心を」与えられる企業に成長させていきたいと考えています。

これからは月額1万円で新車に乗る時代!車検代7年分+自動車税7年分+自賠責7年分+オイル交換13回+マット・バイザー付き!頭金もいりませn全てコミコミ!

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